舞踊団公演4曲目:ファルーカ

(03)舞踊団公演

ファルーカ(ヘンリー8世と二番目の妻アン・ブーリン)

悲しみと絶望の中で病に倒れ死んでいったキャサリン亡き後、ヘンリーとアンは仲睦まじく…と思いきや、二人の仲は、あっという間に暗雲(あんうん)が立ち込めていきました。

アンが産んだ一人目の子供は女の子でした。二人目の子供は男の子でしたが、アンはその子を流産してしまいました。笑っちゃうことに、アンもキャサリンと同じで、男の子を産んでも死産で、大きく育ったのは女の子だけだったのでした。

男の子を産めないアンは流産したことで情緒不安定となり、錯乱し、不安を募らせていきました。

そしてその不安は的中。ヘンリーの寵愛は新たな女に移っていったのでした。

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舞台では時間の関係上、省きますが、アン・ブーリンにはメアリー・ブーリンという妹がいました。
当時の美人の定義からすると、アンは美人ではありませんでしたが、この妹というのはモロ美人だったそうです。
メアリーとアンはキャサリンの侍女として、一緒に宮中に仕えることになりました。
そこで、キャサリンの夫であるヘンリー8世に見初められます。

先にヘンリーの毒牙に掛かったのは、妹のメアリーでした。
メアリーには夫がいて、幸せに暮らしていたところを、無理やり引き離され、ヘンリーの愛妾にさせられてしまいました。
国王の命令には誰も背けなかった。
ところが、しばらくすると、ヘンリーはメアリーに飽きてしまい、棄ててしまいます。

その後、ヘンリーはアンに目を付けます。
ちょっと恋愛がらみで問題を起こしたアンは、ほとぼりが冷めるまでフランスに行かされていました。
でも、フランスは当時の流行の先端だったらしく、アンはフランスの生活を満喫し、すっかり洗練されてイングランドに帰国しました。
そんな素敵なレディーになったアンはヘンリーに惚れられてしまいます。

しかし、妹がヘンリーからひどい扱いを受けたのを傍で見ていたアンは、
「いやいや、こいつ、やばいし。逃げなきゃ」
って思いました。
それで、ちょっと無理めなことを言って、ヘンリーから逃げようと試みました。
「妾じゃ嫌です。ちゃんと妻にしてくれなきゃ、あなたのものにはなりません」
って。
女房のいる男性が遊び目的で独身女性に近づいてくることは、今も昔もよくあること。
女たちは角が立たないように、やんわりと上手く断る術を身につけていきました。
木端微塵に男を振ってしまったら、逆切れされた男に何されるか分かりませんから、相手のプライドを傷つけないように、相手から諦めさせるような手を女は使います。
私はアンが、王妃になりたかったってより、王妃になりたくないから無理難題を言ったんじゃないかって思います。
「さすがのヘンリーも、スペイン王女である王妃と離婚してまでして、アンを手に入れたいとは言わないだろう」
ってアンは思ったのではなかろうか。
ところが、ヘンリーはぶっ飛んだ暴君でした。
王妃と離婚すると言い出しました。
諦めさせようと思って言っただけなのに、逆にヘンリーに火を点けてしまい、とんでもないことになってしまいました。
王妃はスペインから嫁いできた血筋のよろしい王女様で、見た目も可愛らしく、イングランド国民に大変愛されていました。
それゆえ、アンは見事にヒール(悪役)となってしまいます。
イングランド国民全員に「悪女!娼婦!」と罵られる事態となってしまったアンを私は気の毒に思います。

洋の東西を問わず、宮中に侍女として仕えることができる人というのは貴族の女性たちです。
ということは、彼女たちの祖父、父、兄弟もまた、宮廷に出入りする貴族。
権力を手にしようとする野心家の貴族たちにとって、娘というのは政治の道具でした。
娘が国王の目に留まったならラッキーです。
一族は国王から良い扱いをしてもらえるようになる。
だから娘の本当の幸せは何かなんて関係ありません。
娘は夫や恋人と別れさせられ、国王に差し出されました。

私は思う。
身分の高い人が必ずしも幸せではないのではないかと。
誰の注目も浴びずに普通に電車に乗れ、SPもつけずに街を歩けることって、ものすごく幸せなんじゃないかと。
家族の為、一族の為、そこで働く人たちの為、自分を犠牲にし、望まない相手に我が身を差し出さないでいい、そんな今の時代の日本に平民として生まれてこれたことは、すごいラッキーなこと。

アンもメアリーも、一族の男たちは守ってくれませんでした。
自分の身は自分で守るしかありません。
貴族の女は、平民の女のように労働する術を知りません。
望まない相手であっても、親兄弟が言う通り、諦めて結婚するしか生きて行く道がありません。
王の寵愛を得てしまったのであれば、もう腹をくくって、愛される努力をするしかありません。
男児を産むことが王の望みであれば、何が何でも産まねばなりません。
そうでもしなければ用無しです。

そう。ヘンリーとアンの間に愛なんて、最初から存在しなかった。
ヘンリーはアンの胎が必要だっただけ。
どうせ抱くなら、好みの女がいいってヘンリーは思っただけ。
アンを愛してなんかいなかったし、妻と言いながらも、キャサリンのようには、対等の人間としても扱っていなかった。

人間は自分の足で立てないで、誰かに依存していると、
「この人に棄てられたらどうしよう」
と不安になります。
それが親であれ、夫であれ。
私は何故か子供の頃から、親の無償の愛というのを信じることはできませんでした。
だから、「いい子にしてないと父親に棄てられる」という不安がずっと付きまとっていて、
「誰かに依存して生きるということは、常に不安を持ち続けることになるんだ」
ということを早くから知っていました。
だから、学校を出て初任給をもらった時に、
「ああ、これで私は路頭に迷うことはなくなる」
と本気でホッとしたのを覚えています。
でも、子供の頃は自立してないので、親の好みの子を演じるか、親の前では大人しくしてるしかありません。
アン・ブーリンも同じような心境だったのではないかと思います。
昔の女性だし、もっと切実か…。
「好みの女を演じるしかない。
男児を産んで欲しいと相手が言うなら、産むしかない」
って不安を抱えながら覚悟を決めたのではないかと思います。

ただ、相手からの愛を失うことに不安を覚え、相手の望み通りの自分になり、相手の望みを叶えることで、一瞬は不安は打ち消されますが、その不安は完璧には消えません。
そして、再びその不安は再燃します。
だから、延々と相手の顔色を窺い、自分を偽り続けることになります。
でも、自分を相手の好みに変えることは、不安への対処法としては適していません。
むしろ今ある不安をさらに募らせることになります。
相手がどんなに素敵な人で、ステイタスのある人でも、そんな人生、幸せとは言えないですよね。

不安への対処法は、自分の足で立つことです。
いわゆる、自立。

棄てられるのが怖いのは、棄てられたら生きて行けないと思うから。
ならば、誰かに依存しないでも生きて行ける自分になればいい。
そうしたら、棄てられるのが怖くなくなる。
すると、自分の意見を臆することなく言えるようになる。
嫌な相手を受け入れる必要もなくなる。
自分が自分らしく生きれる。
自分らしく生きていれば、その自分に見合った人が現れる。
自立してれば相手に執着することなく、見返りを求めることなく、ただ相手を愛することができる。
それって幸せなこと。

「ヘンリーの望む女でなくなったら棄てられる。
ヘンリーが望む男児を出産できなければ棄てられる」
アンは追い詰められて、狂っていきます。
ヘンリーへの愛はどこにもなく、執着という重~い想いがそこにありました。

そんな様子をファルーカの音楽に乗せて、ヘンリー役の神睦高とアン・ブーリン役の冨田英子のパレハで踊ります。

尚、このファルーカは、エミリオ・マジャのアルバムに収録されている録音を使います。
振付は神睦高によるものです。
日頃見慣れたフラメンコとは一味違った面白さをご覧頂けるかとおもいます。



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