キャラクターの心情を踊りで表現する
今度の舞台では白蓮という女性が主人公で、その人を軸に物語が展開していきます。
物語の展開は声優さんが行いますが、それぞれの登場人物の心情はフラメンコ使って表現します。
登場人物の中に、九条武子という人が出ていきます。
舞台では、カラコレスとスペイン民謡「禁じられた遊び」を踊ります。
九条武子は白蓮と同じく上流階級の人です。
美貌も知性も兼ね備え、白蓮同様に、皇室と縁のある家柄で血筋も申し分なく。
パンピーから見たら『恵まれた人』です。
でも、神様は公平で、恵まれた人にも悩みはあります。
この世に悩みのない人はいません。
誰でも、自分の好きなものをいつでも選べるとは限らない。
白紙の状態で「どれがいい?」「何がいい?」と聞かれたら、「これがいい」と答えられるものの、意思を聞かれることなく、あてがわれるものは多い。
かつて石原慎太郎が『NOと言えない日本人』という本を出してベストセラーになったように、「いらない」「好きじゃない」とは言いにくい。
白蓮も九条武子も、親なり兄なり、実家の決めた相手と結婚します。
二人とも、その結婚相手を最初は受け入れますが、その後は二人は違う決断をします。
白蓮は、与えられた相手を嫌だと拒否します。
武子は、与えられた相手が嫌だけど、嫌なままの状態を受け入れます。
与えられたものを拒否する時に、本当に相手が自分のことを思ってくれていたならば、そこで一波乱はありません。
でも、相手が自分のことを利用する為に与えていたものを拒否する時、一波乱があります。
白蓮に与えられた結婚相手は、白蓮の為を思って与えられたものではなかった。
家のため、名誉のため、金のために白蓮を利用したに過ぎなかった。
だから、白蓮が「いらない」「好きじゃない」とNOの意思表示をしたことで、一波乱が起きてしまいます。
多くの人は、NOと言った後の一波乱が面倒だったり、それを乗り越えるのに力を発揮するのが大変なのが分かっていて、その力を発揮することは自分には無理だと諦めてしまいます。
NOと意思表示した後の面倒を引き受けるよりも、NOと意思表示しないで満足できない現状を受け入れる方が楽な気がしてしまいます。
それに、NOと意思表示した後で、「今よりもその後の方が悪い状況だったらどうしよう」と損得勘定してしまうと、NOと言うことは勇気がいります。
白蓮は、NOと言った後の面倒事は想像できたけど、満足できない現状を我慢する方がもっと嫌だと思い、NOと言う選択をします。
武子は、NOと言った後の面倒事を想像し、満足できない現状を我慢するという選択をします。
波風を立てまいと、嫌な状況を受け入れてしまう人の気持ちはわかる。
私も大抵はそうです。
でも、我慢に我慢を重ね、それは限界に達し、「もう無理!!!!」と爆発することは多い。
そういう意味では、私は白蓮と同じです。
NOと意思表示することで失うものは多いし、大きいし、相手を傷つけることもあるし、何より疲れる。
無難な選択ではない。
でも、私には、NOと言えずに我慢し続ける状況に明るい未来はないように見える。
だから、大富豪の奥さんとして不自由のない暮らしをしていた白蓮が、若い恋人と駆け落ちをし、お金には代えられない満足を得るという選択をしたのは良く分かる。
経済的に自立し、自分の足で立つということは、誰かの意思に逆らう自由を得たことになる。
でも、私には九条武子の気持ちは分からない。
冷え切った仲の夫の籍に入ったまま、結婚前からの相手と不義密通を続けて、お茶濁して、それで幸せなのだろうか・・・。
世間から後ろ指をさされないことが、そんなに大事なのだろうか?
世間の評判の方が、自分の意思を貫くより大事なのだろうか?
NOと言った後の一波乱がそんなに怖いのか?
色々な生き方はある。理解できない人もいる。
無難な人生の選択をし、すごく不幸でもないけど、不幸な状況を我慢して受け入れ続け、幸せな人の振りをし続けた九条武子は、何を考えていたのだろう。
と、カラコレスと禁じられた遊びで武子役の生徒たちの踊りを見て思うのでした。
私たちは舞台でただ踊るのではなく、役柄の心情を掘り下げ、それを踊りで表現します。
それが面白いと思って、こういう舞台を作っています。
白蓮、サキ、優、武子は、実際にいた人物と言いながらもかなり脚色してしまってますし、私が作り出した舞台上のキャラクターですが、武子は私と遠くて、イマイチその心情が読みにくいキャラクターです。
幸せそうに見えても、恵まれた人に見えても、NOを選択できずにモヤモヤを抱えていては、決して幸せではないように思う。
そこを武子役の2人は踊りで表現してもらえたらと思ってます。
武子役の2人、頑張って。
コメントを残す