Farruquito XXI Festival de Jerez
へレス・フェスティバル9日目のビジャマルタ劇場は、ファルキートの公演でした。
日本に戻ってくると、あれやこれやとやることがあり、なかなかスペインでのことが書けないものだなぁって思います。
スペインにいる時の方が時間があった。
日本にいると慌ただしいですね。
これだけ毎晩公演を見ると、そりゃ、私の好きな公演、ピンとこない公演もある。
公演の良し悪し抜きに、単純にその踊り手のことが好みじゃない場合もある。
それでも、どの公演であっても、作り手が一生懸命に作ってきているのが伝わる。
そして、好みじゃない公演であっても、必ず、どこかしら良いと思えるところがある。
だったら、なるべく、いいなって思ったところを書こう・・・と思っております。
なので、あまり「いいな」って思うところがなかった公演の場合は、とっても言葉を選び、苦肉の策を講じています。
これがね、いい加減に、適当に作ったものだったら、いっくらでも悪く言える。
けど、皆、一生懸命なのが伝わるし、自分も舞台で踊る人なので、簡単に批評はできないと思うのです。
そんな中、安心して、「私、あまりこの人のこと好きじゃない」と言ってのけることができる人がいる。
それは、その人が他の誰よりもすごいと知っているから。
他の誰よりもすごくて、他の誰よりもファンが多く、すごくすごい人だからこそ、一人くらい、「好きじゃない」って人がいてもいいよねって感じにさせる。
いわゆる、スーパースター。
これが、大勢の人が「なんだ、あの踊りは・・・」って思ったような人だったら、気の毒過ぎて言えない。
ということで、心置きなく言っちゃう。
ファルキート、すごくすごい人なんだけど、なぜか、私の好みではない。
公演は楽しかったようです。
うちの生徒たちの、へレス・フェスティバル最後の公演となりましたが、二人ともこの公演が一番良かったと言っていました。
他のお客の反応も良く、客入りもものすごく多かった。
でも、私は、「うーん」って感じ。
たぶんね、この公演はエンターテイメントとして成り立ってたと思うのです。
でも、それがね、
「こういうことしたら、お客さんに受けるよね」
ってのが分かっててやってる感じがして、
「ファルキートが本当にやりたいことは何なんだろう」
って気にさせました。
座長としてのファルキート。
家族の長としてのファルキート。
皆のファルキート。
それは舞台の上にいたのですが、
「ファルキート」がいない。
全然ファルキートっていう個人が感じられない。
これまでの公演を上演した他の踊り手たちは、その作品の良し悪しや、踊りの良し悪しなんか抜きに、
自分たちのやりたいことをやってる気がするけど、
ファルキートは他人の期待に応える作品を作ってきたって感じ。
以前、ピラール・オガジャ(妻)が妊娠中に、アンドレス・ペーニャ(夫)が一人で公演を行ったことがありました。
ピリ(ピラールの愛称)と一緒に夫婦舞台をやってる時のアンドレスも素敵なのだけど、ソロ公演では、アンドレスの匂いぷんぷんで、「アンドレス・ペーニャここにあり!」って感じで、素晴らしかったのを覚えています。
すごく印象に残っています。
その対極にいるのが、このファルキートの舞台だなって思ったのでした。
ファルキートの舞台なのに、最初から最後までファルキートがソロで踊るところがないし、周囲の人の良さを引き出したり、気を使ったりしているのだけど、自分がドドンと前に出てくる感じがしない。
他人の目を気にして、カッコつけてるだけにしか見えない。
「あんたの冠公演なんだから、周囲に気を使ってる場合かよ。ドドンと前に出て来いよ!」
と思ったのでした。
そういえば、
「この公演が一番良かった!」
って言ってたうちの生徒たちも、
「女の子の踊りが素敵で、見習いたいと思っちゃった!」
と言ってたので、注目したのはファルキートではなかったようです。
この点、彼のお母ちゃんのファルーカは、ドドンと出てきます。
「おおおーーー、こう来たか!」
って位、印象に残ります。
名門一家を背負う座長というのは、色々と気苦労が多いのでしょう。
何も持っていない人は、1から這い上がってこなければなりません。
けれども、その分、背負うものがないから自由です。
名前なんか通ってない方が好きなことできる。
そう考えると、ファルキートって大変だよなぁ。。。
一人になるのが不安なのか?
他の人の良さを使わないとこの公演は成り立たないと思ってるのか?
脇役も、ストーリーもいらない。
「踊り手はファルキートだけ」っていうファルキートの公演を見たいと思ったのでした。
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