【舞踊団公演】テーマ

(03)舞踊団公演

この秋の公演は、柳原白蓮を軸として展開しきます。


虞美人、茶々(淀殿)、額田王、六条御息所、

まあまあ、有名どころなので、知っている人が多かったかと思います。

ただ、今回の白蓮は、説明を受ければ、「ああ、あの人!」

と分かる人もそこそこいる程度には有名ですが、

そうじゃないと、最初は

「ん?誰だっけ?」という位の知名度の方です。


彼女は、明治、大正、昭和の時代を生きました。

大正天皇の従妹ということで、由緒ある華族の出の方です。

士農工商という身分制度があったことは教科書で習いましたが、

今の私たち、いつも会う友人・知人たちがどの出かなんて知りません。

そんな制度、一体、いつ頃までは存在し、いつ頃にはなくなったのでしょうか…。

現在、NHK大河で放送中のドラマの主人公・渋沢栄一さんという方は、

天保に生まれ、明治、大正に活躍し、昭和6年に亡くなったそうですが、

この方は百姓の出で、武士に憧れ、徳川慶喜に仕えたみたいです。

ドラマを見ていても、まだこの頃は、百姓や武士、公家というのが

はっきり分かれていたようです。

でも、今の私たちにはピンと来ません。

部落だなんだとかも、関東で生まれ育った私たち世代にはピンと来ません。

学校を出て、関西発祥の会社に入り、

その入社式の後で、『部落差別を止めましょう!』という映像を見せられ、

「へぇ、そんなのがあるのか」と知った位です。

後から、関西地方はそういうのが根強くあると聞き、

「面倒臭いことがなくなり、いち早く近代化した東京で良かった」

と思った思い出があります。

私たちと似た風貌の在日外国人に対する差別も、私たち世代で、あるのかな????

国同士が仲が悪いことは、政治家に任せればいい。

日本で生まれ育ち、日本語を話す知人・友人が、どこの国籍なんか関係ない。

せいぜいが、空港の入国審査で、

『日本人』レーンに並ぶか、『外国籍』レーンに並ぶかの違いだけ。

その人を国籍で判断するって、変じゃない?

私からすると、バスケのるいくんは日本人だと思うけど、

テニスのなおみちゃんは、日本人でもなく、ハイチ人でもなく、アメリカ人。

お母さんは日本人かもしれないけど、アメリカで育ってるし、

彼女の言動を見てると、どう見てもアメリカの影響を色濃く受けてる。

彼女はただ日本国籍を持ってるだけ。

日本にルーツを持ってるだけのアメリカ人。



なんとか大学を出ました。

なんとか賞を取りました。

なんとか舞踊団にいました。

ってのも同じ。

「そうなんだ~」とか、「すごいね」とは思います。

でも、気になるのはその人の肩書じゃない。

興味があるのは、

「で、今のあなたは何をしているの?

何ができるの?

あなたはどういう人なの?

何をしたいの?どうありたいの?

これから、どうしていくの?」

というところ。

輝かしい過去の栄光を否定はしない。

ただ、過去の属性だけじゃ今を生きていけない。

過去やってきたことを、今どう活かしているか、

これからどう活かしていくかの方が興味ある。

カテゴリーにはまっていると楽だ。

自分で勝負しないでいいから。

相手をカテゴリーにはめて判断するのも楽だ。

自分の『人を見る目』を養わないでも済むから。

有力者と呼ばれる人たちが、

「この人はすごい」と評価した人を自分も評価すること、

「この人はダメだ」と評価した人をダメと思うことは、

自分の『人を見る目』に自信がなくてもできることだから安心だ。

そんな人たちがいっぱいいたら、

「皆一緒♪」で、石を投げられることもなくて、益々安心。

だからこそ、人をカテゴリー分けし、カテゴリーで区別することは、頭が悪そうに見える。

華族の出だって、人間性の低い人はいるし、

百姓の出の無学の人の中にだって、人格者はいる。

でも、これは、現代を生きる私の価値観。

白蓮の生きた時代には、こんな価値観はかなり異端だった。

出自がとても大事だったようです。


なんて、堅苦しい時代なんだろう。

閉塞感が漂う。


歴史上の人類の大きな過ちは、いつだって、

集団が思考を他人に預けるところから始まっている。

そう考えると、渋沢栄一ってすごい。

そういうのを全部、破ってきたんだから。

ちょんまげを落とし、散切り頭になった時に、

大泣きした人たちは多い。

そんな中、渋沢栄一は、「すげー」と目を輝かせた。

古いものを壊せる人がいたから、新しい時代が来た。

そりゃ、お札にもなるさ。


慶喜だって、「人命に勝るものはなし」という今の価値観からしたら、

部下に無駄死にをさせず、大阪城から逃げ出たのはすごい英断だと思うし、

超斬新なアイディアだと思うけど、

当時にあっては、時代を3歩も4歩も先取りし過ぎて、

「戦わずに逃げ帰ってくるなんて、情けない。この腰抜けめ!」

とののしられた。

今の私たちになら分かる。

慶喜は、古いやり方をそのまんまやって屍の山を築くことより、

古いやり方を通して、死んでしまうのは馬鹿なことだとと思い、

「それでも男か!武士か!」と批判されることを受け入れた。


無駄に血を流し、戦いを続けた男たちに対し、

篤姫、和宮という女が奔走し、江戸城を無血開城で戦を終わらせたというのも

古い価値観の崩壊、新しい価値観の創生。

とても面白い。

武士だろうと、公家だろうと、男だろうと、女だろうと、関係ない。

切られて血を流せば痛い。

死んでしまったら、そこで終わり。

その事実だけ。



こんな感じで、現代を生きる私からすると、

人をカテゴリー分けし、

それに囚われてた先の時代の人たちは

「馬鹿だなぁ」

って思う。


でも、だからこそ、ドラマになる。


私が、「馬鹿だな~」と思う先の時代の最高峰にいた華族の出の白蓮。

華族の出であることに誇りを持ち、それだけが拠り所だった白蓮。

それしか価値がなかった白蓮。


その白蓮こそが、

そのカテゴリー分けに一番がんじがらめになって、

自分を不幸にしてきた。


白蓮は人生の後半に、

何よりも重んじてきた自分のカテゴリーから飛び出し、

華族という自分の属性ではなく、

歌を詠む才能という自分の持って生まれたもので勝負をし、

幸せをつかむ。

実家があてがった、

「同じ身分の男」でもなく、

「金持ちの男」でもなく、

「自分と合う男」を選び、幸せを手に入れる。



『肩書や属性に囚われたところに幸せはない』

というのがテーマの舞台です。


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